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入れたものは出します

【映画感想】太陽

太陽
元は舞台で、それはそれでとても面白そうだったのに、結局見そびれてしまっていた。

 

物語の舞台は 21世紀初頭。バイオテロによって世界にはウイルスが蔓延。太陽の下では生きられないが、若く健康な肉体と高い知能を有する進化した新人類【ノクス(夜に生きる存在)】。太陽の下で自由を謳歌しつつも、暮らしは貧しいままの旧人類【キュリオ(骨董的存在)】。2つの世界で対立しながら生きる2つの人間がどうやって融和していくのか─生きることはどういうことなのかを問いかけていく。

(映画『太陽』公式サイトhttp://eiga-taiyo.jp/より引用)

 

キュリオは、20歳になるまではノクスへの転換が可能。ただし、村で1年に一人だけ。
この設定を踏まえて、
キュリオの3人の幼馴染み、ノクスに憧れる鉄彦(神木隆之介)と母が父と自分を捨てノクスになったことでキュリオとしての生き方に拘る結(門脇麦)、20歳を超えノクスにはなれない拓郎(水田航生)の3人の幼馴染みを中心に話は展開する。

 

 

私にとって、この映画のポイントは2つあって、
①ノクスとキュリオの生物としての違い
②目に見える境界と見えない境界

なので、この2つに絞って感想を書こうと思う。でないと、ライチの二の舞になる笑

 

まずは①
ノクスは太陽に当たると一気に高温で焼かれたように炭化して死ぬ。
これは、ウィルス感染によって遺伝子レベルで変化してしまった状態なのか、ウィルス感染症を乗り越えた結果、違う遺伝情報を持ってしまったのか、どちらにしても、もうノクスとキュリオは別の生き物だよね
医療的見地から、ノクスに転換できるのは20歳まで。それ以降だと拒絶反応が出やすいとかなんだろうか。
ノクスに転換すると、キュリオ時代に培ってきた豊かな感情や強い意志や、愛情や思いや執着が全て消え失せて、それを抱いていたことさえ、記憶に留まらない。
事実や現象の記憶はあるけど、感情の記憶がなくなるというか。
結がノクスになって、最後に一度だけ父親と鉄彦に対峙するんだけど、もう、父親やキュリオの暮らしへの愛情や熱すら失ってしまっていて、ただ淡々と、生まれ変わったことへの喜びを語るシーンは、衝撃でもあるし、別の生き物になったんだというのがよく解る。

ノクスにとってキュリオは愚かで可哀想な存在でしかない。キュリオにとってはノクスは忌むべき憧れのようなもの。
互いに永遠にその存在理由もわからないまま、共存とは言いがたく、交わらないまま、昼と夜、あちらとこちらで微妙な干渉を繰り返しながら生きていくしかない。

感情を豊かにもつことは苦しいけど、美しいことでもある。それらを全部捨てた先に、理性だけで統制された世界はユートピアなのか、それともディストピアなのか。



彼らを隔てるものは、目に見える境界と見えない境界。
昼と夜、街と集落、ゲート、或いは、互いの存在に対する無知。
互いを知ろうとしなければ、何も変わらない。こちら側、向こう側と境を作り、隔てることで互いの生活を守ってきたとも言える。
けれど、交わることで知り、何かを変えていくことが出来るかもしれないという希望は微かだけどある。

うまくいかなかった例が冒頭の殺人事件であり、結の両親であり、拓郎と結と鉄彦の関係で。
だからこそ、鉄彦とノクスである森重との友情が、とてつもなく美しく見える。
理性と絶対的な秩序だけを振りかざすことの無意味さを、西に沈んでいく太陽の最後の光が消し去ってくれればいいのにね。
あと1時間で日の入りです。 というアナウンスが祈りのような救済のような声にさえ聞こえてくる。

キュリオとノクスとして、互いを尊重し助け合い、手を携えて未来へ旅立った、鉄彦と森重が希望を掴めますように。